森川美穂メールマガジンをスタートします!
どんな内容になっていくのか?自分でもわからないままにキーボードを打ち始めてみました。
なんか、タイトルがほしいと思いまして「うらかたまじしに」という名前が浮かんだので、それで行きたいと思います。
若い頃の西嶋の視点でみた裏方ストーリーです。まず今日は、最近の話から。
22年ぶりに森川さんとの再会した2011年の夏の思い出話からスタートします!
それでは、はじまりはじまり。
2011年のぼくはインターネットというものが、ぼくらの仕事や人生をこれほど大きく変えるなるなどとは思わずに、周りの人がやりはじめたから、ただ見よう見まねでFBに登録してみた。
それ以前は、mixiで日記を書いていたけどクローズドの世界よりオープンの世界へという流れに、そのまま飲み込まれ、2011年1月29日にぼくはFBに登録している。
そして、森川さんは2011年の6月5日にFBをスタートしています。
そして、この年の2011年7月6日 10:31にぼくと森川さんはFBという電脳空間で22年ぶりに再会しました。
一口で22年といいますが、わかりやすく言えば、森川さんの「チャンス」の歌入れをしたのが、ぼくが森川さんのレコーディングをやっていた最後の録音でしたから、それ以来ということです。
あれから一度も会うこともなかった20歳の彼女が、その倍以上の人生を経験していきなり、大人になって電脳玉手箱から出てきた。そんなびっくり仰天の再会でした。
ぼくはこの頃、因幡晃、ばんばひろふみ、杉田二郎、という大御所アーティストのマネージメントをしていまして、全国、旅をすることも多かったので、大阪に行ったときに、2011年の夏、電脳空間ではなく現実世界で森川さんと会うことにしました。
22年ぶりの再会は、大阪のうどん屋さん。680円のうどん定食をたべました。なぜ、そんなに詳しく覚えているかといえば、森川さんにおごってもらったからです。
まさか、高校生だったあの子に、ぼくがご飯をおごってもらう日が来るとは思っていなくて、なんとも言えない、不思議な気分を味わいました。
それと、もう一つ、とても印象的だった会話があります。森川さんとこの日うどんやさんに入って、テーブルにつくなり、飛び出てきた第一声が、、、、
「あのさー西嶋さん、私もっと歌がうまくなりたいの」
・・・というフレーズだったことです。
衝撃的でした。
その時、森川さんは43歳。まだまだ伸び盛りの情熱を持っていた。
「私、今、大阪芸術大学で歌を教えたりしているんですよー。17歳でデビューして今はもうこの歳でしょ。もう誰も、歌のこと注意してくれる人がいなくなっちゃったんですよね。自分じゃ、わからないことってあるじゃん?だから困るんだよねー」
いつものMCのような、あのテンポ感で、ビシッ、バシッ、ビシッ、バシーン!と歯切れよく飛び出てくる言葉にぼくは圧倒された。なんてまっすぐ竹のように育ったのだろう。
育ったといっても、もうそれなりに歳だけど、年齢なんていうものは、自分であり方を決めるものだ。年寄りと思えば、10代でも年寄りになれる。よくアイドルが「私、もう18歳なんでおばさんですー」なんて、言っているのとか見たことありますよね?ばかじゃないかと思いますが、森川さんの場合は、そんなことに目をくれることもなく、歌を愛して、ただまっすぐに突っ走って、いつも「今」を生きている。そんな人生青春どまん中という印象をうけました。
そういえば高校生から20歳までの森川さんしか知らないぼくは、直接、ちゃんとした会話なんてしてこなかったもんなと思いました。
当時、作品の話は、スタッフ間で行われていて、森川さんと会話するのは、歌入れのレコーディングのスタジオの中だけでした。だから、普通の世間話みたいなことは、この時がはじめてだったのです。
22年の時空を飛び越え、電脳玉手箱からリアルな世界のうどん屋さんに、そして目のまえに、本人はいますがまだぼくの脳には高校生くらいの森川さんのイメージが浮かんでいてました。
しかし、目のまえに座っている人は、竹を割ったようなキッパリした人で、さらにマシンガントーク。
変わることのない歌に対する愛情に、ぼくは背筋がのびました。こちらまで、やる気になってくる。
歌手というのは、歌えるだけが歌手じゃない。生き方や、存在そのものが勝負なわけです。そういう意味で、すばらしい歌手になったんだなと強く感じました。
一言一言が、勢いがあって、さらにマシンガン。衝撃的な再会でした。
しかし、この段階では、まさかまた一緒に仕事することになるとは思っていませんでした。
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今日は、最後までお読みいただきありがとうございます。
次回は、デビューの頃、1985年からの森川さんとの関わりについて、書いてみたいと思います。また、書いたら、メールします!