前回、URAKATA_Vol.2はいかがでしたか?書いたあと、思ったのですが、1st.single「教室」でアイドルとしてデビューして、次が「ブルーな嵐」って、、、、
ようするに、アイドルぶち壊しですよね?この時に森川さんのアイドルの可能性をぶっ潰したのだと気がつきました。
森川さんに、その話をしたら、、、、「アイドルって、私には無理でしたね。ぶりっこするの、きつかったんですよね。まさかの “ブルーな嵐” があったからこそのアイドル脱皮方向へなのかな?びっくり!あの曲にもちゃんと役割があったんですねー!!」、、、だって、、
なんちゅーか、無限ポジティブ(笑)前向きにしか考えられない人って、世の中にいるんですね。
さて、Vol.3書き終わりました!なんだか、書きながら自分でおもしろくなってきております。
それにしても、意味深なタイトルですね。たぶん、おもしろいです。
それでは、URAKATA_Vol.3「消えかかったシングル曲:その1」
はじまりはじまり~。
1986年の年末頃だったと思うのですが、時期は定かではありません。すでに「教室」「ブルーな嵐」「赤い涙」「姫様ズームイン」と4シングルをリリースしていた森川美穂。
レコード会社、ヤマハ、そしてぼくが在籍していた日本テレビ音楽もそうですが、声もいいし、なんとかヒットさせたいけど、大人たちの考え方としては、、、、
ドラマ主題歌もやった。宣伝費もかけた。でも、なかなか売れない。そんな時期でした。
人というのはみんなそういう傾向がありますが、うまくいけば自分が偉い、俺がやったんだと言いたがる。しかし、ヒットしないと、それは素材(歌手としての本人の資質)がイマイチ、突き抜けるものがないんだよね・・・みたいな、言い方になるものです。
このパターンは、ぼくは、このあとも多く経験していくことになります。
森川美穂のあの艶やかな、どこまでも伸びていく気持ちいい声は、ぼくはとても好きでした。そして、この「声」を生かせる曲というのが、もっとあるのではないか?という思いが強くありました。
ヤマハという会社は、基本的に自社ですべて制作し、それをレコード会社へ音源供給するというスタイルをとっていて、あまり外部スタッフが制作に関わることがありませんでしたが、ぼくは、ある経緯があり、ずいぶんどっぷり森川さんの制作スタッフとして入り込んでいました。(このある経緯というのは、また別の機会に伝えしますね。長いので。)
当時のぼくは、このチームの一員としてぼくができることは何か?ぼくだからやれることはいったい何なのか?を真剣に考えていました。
そして、ぼくなりに導きだした答えが「新しい風を送り込む」ということでした。
具体的に言えば、ヤマハでの制作は当時、クリエーターがだいたい決まっていて、たとえばアレンジャーで言えば、大御所の瀬尾さん、萩田さん、川村さん、大村さん、若手の山本さん、十川さん、らが多くのアーティストのレコーディングをしていました。
そこで、ぼくがさまざまな主題歌を作ることでつながりをつくってきた作家陣を森川美穂の制作へ新しく投入することで、世界観の広がりをつくってみようということをやっていきました。
当時のぼくは、たかだか27歳の若造でしたが、この頃、すでに多くの作品をつくっていて多くの作家たちと仕事をしていました。
「プライド」作詞:佐藤純子さん作曲:大内義昭さん
「Be Free」作詞:麻生圭子さん、作曲:羽場仁さん
「Summer Sweet Pain」作詞:麻生圭子さん、作曲:中崎英也さん、
そしてアレンジャーの小林信吾さんや、佐藤準さん、といったといった方々は、当時、まだヤマハの仕事はあまりしていなかったのですが、これらのクリエーターを「新しい風」として、森川美穂の世界に投入することが、ぼくがスタッフとして唯一出来ることだと考え、実行していきました。
今、思えば、このぼくの若い頃の勘違いというか、勢いというか、それが、森川美穂の音楽の方向性を変えていきました。
ぼく自身、彼女のことをアイドルだとは思っていなかったので、その理解力のなさが、方向を強引に変えていくことにつながったのだろうと思います。
その、方向転換の第一歩となる出来事が
この1986年の暮れ頃におこります。
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今日は助走までしか書ききれませんでした。ながくなるので、今日は、ここまでですが、ここからが急展開で、面白くなります。
それは次号でお伝えします!それでは、つづきを書きましたら、またメールいたします!
すごい話になりますので、お楽しみに!